羽生善治-加藤一二三の一戦で、羽生が指した「伝説の一手」と呼ばれる▲5二銀。今回は、その手が打たれる直前に、解説の米長邦雄が示していた別の手順にフォーカスを当てて棋譜を解析してみたいと思います。
本局(羽生-加藤戦)の概要
今回題材とする一局は、1989年のNHK杯トーナメントの羽生善治-加藤一二三の一戦で、羽生の先手角換わり棒銀から始まりました。途中、羽生に▲2四歩(2図)という好手があり、羽生優勢で終盤を迎えます。
そして、3図の局面で羽生は▲5二銀!と銀をタダのところに打ちました。タダ捨てのインパクトと、解説の米長の「お~!やった!」という絶叫もあって、この手は羽生の数々の名手の中の代表とも言われるものになりました。
▲5二銀の意味は?
まずは、他の手を解説する前に、図1の▲5二銀自体の意味を解説しておきます。この手は一見タダに見えますが、△同飛でも△同金でも、▲1四角と打つと詰んでしまうため取れません。また、放置しても▲4一角以下詰みます。△2九歩成と王手しても、▲2八歩と受けられると、次に▲2九歩が残るため余計に事態が悪化します。
したがって、本譜で後手の加藤は仕方なく△4二玉と寄って催促しましたが、平凡に▲6一銀不成と取った手が詰めろで、以下数手で先手の羽生の勝ちとなりました。
米長が解説していた▲2三香成を掘り下げてみる
▲5二銀で先手勝ちであるのは間違いないため、その他の手を考えるのは意味がないことのように思えますが、この手が盤上この一手だったのか、他の手でも勝ちがあったかどうかは気になるところです。
実は、この手が指される直前、解説の米長は▲2三香成という手を検討していました(4図)。▲5二銀が指されたことで、▲2三香成以下の検討は途中で終わってしまったのですが、本記事ではその部分を詳しく見ていきたいと思います。
▲2三香成に玉を逃げる手は?
まずは、▲2三香成に、△4二玉と逃げる手を見てみましょう。後手としては、5筋~6筋方面に逃げられればまだ粘れるところですが、▲3六角(5図)という手が痛打になります。飛車取りと6三の地点を狙ったもので非常に厳しい手です。
飛車を渡すと後手玉は詰んでしまうので、△2九歩成とはできず、泣く泣く△1七飛成と退却するくらいですが、▲6三角成が詰めろ銀取り。△5二金くらいしか受けがありませんが、▲6四馬と飛車取りに銀を取った手が、3七の地点の受けにまで効いており、勝負ありです(6図)。
6図以下、△6二飛なら▲5五馬で問題ありません。
▲2三香成に△同玉は?
次に、米長が本筋としていた△2三同玉を見てみましょう。これには▲4一角と王手に打つのが痛打になります(7図)。
これに対して、△3二桂合だと、▲6三角成と成った手が飛車銀両取りになってしまいます。以下、△5四香は、▲2七香で、合駒がなくてほぼ詰みですし、△1七飛成も▲1八香とすると(8図)、竜が逃げれば▲1四銀からほぼ寄ってしまうため処置無しです。△3二桂合のところ、△3二香合は、2四への利きがないためさらに悪化します。
かといって、▲4一角に対して△2四玉と逃げるのも、▲2六銀(9図)と縛ると適当な受けがありません。
例えば9図から△3五歩と突いても、▲同銀から長手順の詰みがあります(この詰み手順は相当難解ですが、詰みが読み切れなくても、▲2三銀と縛るくらいで必至です)。なんとか駒を使って受かったとしても▲6三角成が保険としてありますから、先手は負けようがないでしょう。
コンピューターも▲2三香成を推している
意外なことに、3図の局面をコンピュータ(激指10)にかけてみたところ、▲5二銀は一瞬考えたものの、▲2三香成を本線に思考しているようでした(評価値は先手+2000)。▲5二銀は、決まれば最短で勝ちになる手ですが、もし何か読み抜けがあると、一瞬で逆転負けを喫してしまう危険な手でもあります。そのような手よりは、▲2三香成から受けも含みにして安全勝ちする手順の方が、コンピュータ的に評価が高かったのかもしれません。
コンピュータが示していた次善手も▲5二銀ではなく、▲3八銀と受けに回るものでした。確かにこのように受けられても後手からは思わしい手がなく、実際にそれでも評価値は先手の+1000を超えています。
まとめ
以上みてきたように、米長やコンピュータが推奨した▲2三香成という手でも、先手が必勝になるのは間違いないと思われます。ある意味では▲5二銀よりもリスクが少なく、「負けない手」と思えるかもしれません。
それに対して、羽生の▲5二銀は、非常にリスクが高い手です。実際にはこの手に対して後手の適当な策はなく、▲5二銀が最善手であることは間違いありません。▲5二銀という手自体は、それほど難しい手ではなく、3図の局面で「いい手がある」と言われれば、おそらくアマチュア初段くらいの人ならば、正解を言い当てることができると思います。「羽生マジック」と呼ばれる、対藤井戦の▲2三金や、対渡辺戦の△6六銀などと比べれば、かなり見えやすい手ではあると思います。
ただし、だからといって▲5二銀という手が、たいしたことがないと言うつもりは全くありません。むしろ逆です。
対局者の心理としては、他に選択肢がないような局面であれば、どんな危険な手順であろうと、踏み込むのはそれほど心理的な障壁はありません。他の手順では確実に負けてしまうから、ダメでもともとという感覚になれるからです。
しかし、持ち時間も少ないNHK杯において、▲5二銀のような、一見すると怖い手順に踏み込んだことが、プロとしてただ勝つだけでなく、最短の勝ちを目指した羽生の読みと自信を裏付けています。他にいくらでも勝ちがあった局面だからこそ、▲5二銀は後世に語られるような名手となったのではないかと思います。